人を通じてみている - おやまーの日々のつづきです。
ニュース見出しのオリンピックは、順位だったりトラブルだったり。
失格となった選手の動向、審判のコメントが流れ、
思わぬところでも闘いが行われていたのだと気づかされ、
順位・メダルって、公正って、何だろうと考えさせられました。
けれど。
思ったのです。
審判も人間ならば間違いはあるでしょう。
いい悪いではなく。
審判ならば公平であってほしいとはいえ、
検査の隙をついても勝ちたい人がいるのと同じではないか。
ルールをギリギリまで突いて攻める選手と同じではないか。
それで失格になったなら、災害のような不運といっていい。
風向きが不運で記録が伸びない時と同じような感覚でいい。
そんなことにはまったく触れず、永田氏は書き続けます。
「贔屓という偏りがなければ応援にならない。」と。
15 スピードスケート メダルをとってほしい選手。 | オリンピックを観ている。 – ほぼ日刊イトイ新聞
そう、応援も贔屓。
人間だもの。
そして結果というものは。
その時そのときの何かの絡み合いによって、
意思によらない何ものかによって、決まる。
ただ、一期一会に。
ニュースに気を取られるより、
観戦をし続ける方が断然面白いに違いない。
それができない私には、「観ている。」はすばらしい道標。