難病の方が自ら望んだからと亡き者にした、という事件があった。
アホんだら、と私は思う。
手を下した側のことだ。
望んだ方の辛さを考えたところで、アホンだらに違いないと思う。
なぜなら、考えに共鳴するからと、
長くはない付き合いのうちに、他人を殺したから。
人の感情に波があるのは当然のこと。
身近で世話をしていたのなら、
長くつき合った友人というのなら、
彼女の別の面をみることができたろうに。
もっと深く考えて関わっただろうに。
死へと傾いた気持ちをサッとすくい、自説に拠って亡き者にした、
それが手を下した彼らの罪状。
安楽死という言葉を使うなら、
それを語る人は、安楽な生を望んでいるということ。
安楽な人生でないと許せないのかもしれないね。
虐待、激しい病気治療、過酷な日常はそこここに。
子どもであれば、ただ受け止めて生きる選択のみ。
大人なら逃げられるんだね。
大人は、情けないね。
大人は、哀しいね。
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医療技術も、呼吸器も、さまざまな機器も、補助でしかない。
元々の生命力がなければ生きることはできない。
死に至る要件は多々ある中で、今 命があるというのは、
それだけ生きる力が強いということ。
そんな自分の力を認められないというのは、
もったいないことだし、残念。
生きるエネルギーは誰もが持っている。
それを活かす世界を、つくりたいね。
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もし彼女に、同じような状況の人たちと語り合うという、
精神的支援があったなら、結果は違ったのではないか?
身体介助のヘルパーは、福祉制度として利用できるし、
医療職のフォローもあったろう。
けれどその関係では、世話されてばかりという感覚になる。
だから、感覚が通じる人、同じ世界にいると思える人、
同じような状況で先をゆく人とのつながりを、
身体介助とともに提供すれば、
難病の人がもっと活躍できるのではないか。
さまざまな生き方があると気づいて、
最善の選択ができるのではないか。
ひとは、モノではない。
人との間で、可能性が広がっていく。