違和感がありました。
ネットニュースのタイトルにあった言葉に。
“価値をあげる人・淘汰される人”
“淘汰”って…
生き死にが関わるようなところに使われる言葉と思っていた私。
コメンテーターの質を言うのに、強すぎではないか?
不要な人がいる、と言っているかのように感じ、怖い気がしました。
ふと、意味を調べると、淘汰は選択と言い換えもでき、
進化の過程で次世代に形質を受け継ぐ割合が、多ければ選択。
受け継ぐ割合が少なければ淘汰というそう。
(ざっくりした説明)
そうなのか。誤解がありました。
あるタイプの人は、その場から減っていく、という意味合いなら、フラットな言葉。
“淘汰”→“不要な人”と翻訳して捉えたのは、私なんですね。
もう一歩深めると、
不要とされる人がいて、それを平然と見る(裁く)人がいる、
そう思えて怖いと感じていました。
私が淘汰される人になったように見ていました。
ああ~、私は自分や周囲のことをこんな風に思っているのですね。
(確かにそう)
思っていないことが浮かぶはずありませんから。
引っ掛かったところをよくみれば、自分を映していました。
相手は自分の鏡と言いますが、言葉も自分の鏡。
言葉を受けとるとき、自分の心が反映していました。
言葉を発するときもまた…。
それにしても、
価値をあげる人の対比なら下げる人。
言葉の選び方が私と違うのですね。