散歩に出かけるとき、ちょっと迷いがあります。
小湊鉄道に乗りに行くとき、記事を出すときも同じでした。
「今私たちは、コロナにかからないことだけを生きることの目的にするよう要請されているような気がします」と話す磯野真穂さん
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-isono-1
ウイルスの影響を冷静に読み解かれていて、読後、もやもやした疑問が落ち着きました。
●「命と経済」の話ではなく「命と命」の問題
この表現に、目を見開きました。
医療関係者やライフライン維持に関係する人へは感謝しやすいけれど、
生き甲斐である日常を止めなければならない人への想像はできなかった。
感謝されやすい立場の人は、降りたくても降りられなくなっていないか。
断腸の思いで止まっている人のフラストレーションを自己責任と突き放していないか。
今起きていることへの見方が変わるような、こんな思いが湧きました。
●生きるとはリスクを引き受けながら生活していくこと
大きく頷きました。
どれだけ今まで社会に守られていたか、
どれだけ今まで穏やかな状況に恵まれたか。
危機だからこそ、それを実感します。
“命を守る”は正義になるけれども、“生きる”は、それとは違うもの。
外から守られる命は、外の意向によって左右される。
生きる営みは、その人自身の内から起きるもの。
生きていれば、いずれは死を迎えなければならないもの。
誰もが何かの制約を抱えていて、そうであってもよく生きたいと願う。
このウイルスから逃れることに囚われすぎ、他の大事なことをおろそかにしていないか。
…そうは思ったものの、何を優先するか、難しくて、迷いますけどね。
家の中で見つけた花
さぬきかがり手まり
*
行動を制限をすれば命を守れるとしても、
制限したことで失うものは、個人の自由や満足だけではないかもしれない。
政府が、スマホの位置情報を活用することも考えられているのですね。
厚労省の調査に回答を、とLINEが届いたとき、
これから先、行動を監視されることになったら怖いと感じました。
これは望ましい、これはダメ、と判断されそうで。
自分軸を持ち、毅然と私はこうすると言えるならいいでしょうが、
最初に書いたように迷う私は、決められたら自由がなくなると思うから怖いのかもしれません。