おやまーの日々

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今にいきる小袖

現在の着物のもともとのかたちは、小袖という衣装。その小袖を、生活着=ふだん着として着て暮らす方がいる。

今の着物と違い、帯幅が狭くて身幅はゆったり。足さばき楽々。襟芯などなくて、腰帯(男性のように)だから襟周り胸周りが楽々。木綿で洗濯も楽々。

今の着物がドレスやスーツや制服とすれば、その小袖はTシャツやニットみたいなもの。

 

それなら着物のハードルも低くなりそう。製品化すれば、と言いたくなるが、それは待て。

小袖から着物になったのは、なぜか。どんな訳があったのか。美意識の変化だけなのか。

当時と生活環境が変わっているし、他の衣服があるから、単純に小袖を作っても不満があれば着なくなる。

 

昔、多くの人は着るものを家庭で作った。和服は縫い直しができた。だから各々の身体に合わせられるし、着て動くうちに不満があれば、直すこともできた。

作る手間をかけられず、古着を工夫して着るしかない人たちも大勢いた。身体に合わせる必然性と智恵が着る者にあった。

 

スウェットスーツやTシャツが出始めたとき、「だらしない」と違和感を声にする人たちがたくさんいた。小袖もきっと同じこと。覚悟はよいか。

 

でも、製品化はしないでほしい。

きっとミシン縫いになり、簡単に縫い直せ、着る人に合わせられるよさがなくなるから。

既製品になれば着るものが主役になり、身体に合わない人が疎外されるから。

身体のために着る、それがゆったり小袖。

試着する機会を得て、そう感じた。

 

ちなみに、博物館にある小袖は、特別な人が着るもの。高価な布、手のかかる技法。大事にされ、すり切れることなどないようなもの。だから残った。

ふだん着は使い古され、みずぼらしくて捨てられる。まだ着られるものは、必要な人が着て、使い古される。ゆえに残らないし、残っていてもボロなら展示されにくい。

そうして、当たり前の暮らしの姿とその時の智恵は、いつの間にか消えている。

中世には日常着だった小袖がいつの間にか展示品に替わったように、何世代か後には、今の着物も替わっているだろう。

何が残り、新たにできるものの芽は、今どこにあるのだろう?