辰巳芳子さんの「いのちと味覚」
志村ふくみさんと鶴見和子さんの対談「いのちを纏う」
図らずも、ともにいのちの三字がタイトルにある本を相次いで読んだ。
大正生まれが見た現代のあり方をざっくりいえば、いのちの関わりが薄くなり、人の感覚が拓かれずにおり、歴史文化の深みに触れることが難しいということのようだ。
お三方の育った環境や、食・織に携わった道のりを知り、充分育つことのできなかった自分をひしひしと感じる。
だから生き方を真似ることなどできないけれど、物を大事に使い、できる限りよいものを見分け、物事の循環を意識することで自分を大事に扱っていたかもしれないと気づくことができた。
食も衣服も、いのちを頂いて賄ってきた。生き、暮らすことは、たくさんのいのちに触れ、関わることでもある。
関わりが希薄になったことが現代のいびつさ。
長年の営みを急速に離れた今を、体は戸惑っているに違いない。社会はその不都合を個人に負わせているのではないか?
そう感じるのは、生まれつき構造の異なる身体を健康な状態を目指して変え、足りないところは努力に任されてきたから。
病気として切り分けられ、修復できるようになったからと手術で変えられ、修復後も起きる不都合に場当たりな対処、教育や就業で障害へ適切な対応がないという、この疾患の医療福祉の先端を進んできた。救命を目指す医療は間違ってはいない。けれど古今東西一定の割合で存在するという私のような身体を持ついのちを、社会は認めていないとも言えるのではないか?
ジャンクや化学調味料が苦手で旬を喜ぶ私の味覚。合成繊維が苦手で天然素材を喜ぶ私の肌感覚。親に助けられ育まれた私の感覚は、この社会では過ごしづらいけれど、自身を信じていこう。
人々が叡智を上手に使える日を待ちながら。